Invisible classmates

「コーダの世界」読了。読んでいて何度か涙が出そうになる。それは同情とかでなく、自分の所属すべきコミュニティーを見出した人たちへの羨望ともいうべき感情から。おそらくは美化し過ぎなのだろう。

 

坂口安吾に「漂流記」という小説がある。さまよいたどり着いたところがなんだか懐かしい。周りの子どもたちもなぜか自分を知っている。あるきっかけでそこが自分の祖先の住んでいた土地だったことが分かる、という筋だったと思う。この作品を思い出した。

 

愛することのできる故郷を持った人は幸せだ。私もかつてそういうことに憧れた。故郷を愛せないのは自分の未成熟ゆえ、と思い、無理に故郷を好きなふりをしたりもした。だが、今、もうそういう気負いもない。嫌いなものは嫌いだ。少なくとも今は。それで良いじゃないか。

 

表題の「invisible classmates」は、かつて誰かから聞いた表現。遠く離れていたけど、ある時代を同じように過ごした人同士を指して、そういう表現をしていた。私はそこに、勝手に、それぞれの孤独と、出会えた時の感動を読み込んでいた。

 

こんな風に文章を書いていると、高校生当時、如何に自分が孤独だったかを思い出す。今も孤独だが、慣れた。高校生という若さには、それが耐え難かった。歳をとって何が変わったかと言えば、諦めを知った、ということだ。そこには、あの頃の辛さはない。もしかしたら、苦悩するだけの体力がもうないのかもしれない。