タンポポ

伊丹十三タンポポ」を観る。

 

我々は食べるために生きるのか?否!生きるために食べるのか?否!あるいは生きるためにセックスするのか?否!セックスするために生きるのか?否!

 

我々はただ食べ、セックスし、生きるのだ。生き、セックスし、食べるのだ。盗み、だまし、喧嘩し、恋をし、車を運転し、走り、働き、涙し、生きるのだ。そこに理由はない。理由、それはある種の冒涜だ。なぜそんなものがいると誰が言ったのか。

 

そして誰もいなくなった。なぜ、と問うなかれ。

やれやれ。

Hさん来る。村上春樹の話など。

 

村上春樹について、何が問題か分かった。彼の文学は、人が変わるということの本質的な意味を欠き、変わらない自分と、そこにトラブルを持ち込む世界に対する不平と対処しかない、ということだ。「トラブル」は主観的なものであり、自分が変わるための問いである可能性もある。だがその可能性を拒否する。この可能性と取り組むのが生産者であるとするならば、彼の作品は徹底して消費者的なのだ。

もし、誰もが有罪なのに一部の人のみ有罪になるとしたら

もし世界が相互に関係して、それぞれの人の行動で世界が成り立っているのであれば、無罪である人は、有罪の人に罪を押し付けている悪人、ということになる。

面白うてやがて悲しき

伊藤計劃「ハーモニー」を読む。勧められて。面白かったです。ただ、どこか消化不良の感じが。続けて「虐殺器官」。これは‥村上龍「69」?

 

 

________以下ネタバレあり__________

 

・文体がポルノグラフィック。暴力的なシーンの描写が過剰で「こういうの好きでしょ?」と言われてる感じが不愉快。

 

・意識と内面の扱いへの考察が不徹底なせいで、デストピアを描く、という意識が空転してる。それを徹底していったらデストピアではないしそもそも何も変わっていない。

 

夢見る頃を過ぎても

又吉直樹「火花」読了。正統派ビルドゥングスロマン

 

江藤淳「閉された言語空間」を読んでいる。ただ、この違和感はなんだろう?

 

城山三郎司馬遼太郎江藤淳半藤一利を読んでいて感じる違和感。

 

言語空間はいつでも閉されている。いつでも思想と文化は殲滅戦を生きている。そうでないものなど思想や文化の名に値しない。なんて言い方は潔癖過ぎますか。

 

人はいつでも他人の奴隷化を画策し、人はまた有利な奴隷契約を待っている。相互の面従腹背

 

モリカケ、なんて言わなくても、誰も言葉を信じていないこの世界で、なぜか、ある言葉が真実を語ってしまう瞬間があるのはなぜなのか、をこそ問うべきなのではないか。

嘘をつけ!

柄谷行人坂口安吾論」を読む。

 

柄谷行人を読む快楽がどの辺りにあるのか分かった。気づく者と気づかぬ者、問題の近くにいて、素通りする者とそうでない者がおり、読者は気づく者の側にいることができる。

 

しかし、そういう語り方にはやはり注意が必要だ。気づくとは、気づいてしまうとは、決して幸福も優越も意味しない。多くの場合は、少数者の阻害をこそ味わうのではないか。