間違った肯定の鳴き声
粕谷一希「二十にして心朽ちたり」を読む。途中から苦痛。この本を読んで、共感する人は誰なのか。旧制高校の嫌なところがモロに出てる感じ。
遠藤麟一朗の美学、みたいなもので彼の生き方を肯定したい気持ちはわかるし、そのようにすることにも正当性はあろうけれど、もっと端的に「アル中」として、病人として扱うべきではないか、と思う。太宰治の自殺を「彼の文学の完成」と言ってしまう不健康さを思い出す。バカバカしい。そんなに才能があったなら、作品を書くなり編集するなりすれば良い。可能性だけの天才なんて。
遠藤麟一朗に友人はいたのだろうか。酒をやめさせるよう忠告して、絶交したような人は。
こう言い換えても良いかもしれない。私は粕谷のような書き方を肯定するには健康的すぎる。
思い出しても涙も出ない
高田里恵子「学歴・階級・軍隊」読了。山崎晃嗣や遠藤麟一朗についての記述が印象に残る。面白い。
ただ、あまり若い頃のショックそのものについては、学歴の高さ云々よりも個々人の言語能力とその後の影響が重要で、それ自体は考えなくても良いような気がする。
粕谷一希による遠藤麟一朗についての本「二十歳にして心朽ちたり」のタイトルが良く表している通り、青春は退屈な、通り過ぎるのを待つしかない、台風のような自然現象に過ぎない、と思うからだ。李賀の詩が著名なのはまさにその思いを多くの人が持つからだし、言い換えれば二十歳とは心が朽ちる年齢なのだ。「一番美しい季節」とは誰にも言わせたくない季節。
今、四十を超えて思うのは、体を悪くしない程度にうまくやり過ごしてね、ということくらいだ。
その先に何があるのか
「脳を創る読書」読了。紙のほうが情報量が多く、記憶に定着しやすい、というのはなるほどと思う。電子辞書に替えてから、英単語の記憶力が弱くなった気もするし。人間の脳は複雑さを好む、というのは良く分かる。
もう一つ。言語についてはまだまだ分かっておらず、コミュニケーションができるロボットができるのはだいぶ先のこと、とのこと。ただ、それは人に「内面」を想像するモデルを採用してるせいではないか。刺激と反応+学習、というモデルであれば、言語の形而上学的な問題を回避できるような気がするのは、素人の浅はかさのせいかもしれないが。チューリングテストに合格できる、というレベルは難しいかもしれないが、人間の子供もチューリングテストは合格できないのではないか。うちの子(3歳)を見てるとそう思う。