あんなことがあった後には

全てがどうでも良いような気持ちがする。「もう既にこんなにあんなことがあった後にはもう取り返しがつかない」というような。

 

「あんなこと」というのは、なぜか私自身の体験していないことではあるけれど、例えば水俣病とかインパール作戦とか三光作戦とかヘロデ王の幼児大虐殺とか。

 

個別の事件が事実あったかどうか、というよりも、人間はそういうことをやってしまう、という事実の問題。

 

子を持って初めて子を失うことの辛さ、悲しみ、苦しみ、怖さが想像できるようになった。それだって、実際に経験するのとでは全然違うだろうけれど。

間違った肯定の鳴き声

粕谷一希「二十にして心朽ちたり」を読む。途中から苦痛。この本を読んで、共感する人は誰なのか。旧制高校の嫌なところがモロに出てる感じ。

 

遠藤麟一朗の美学、みたいなもので彼の生き方を肯定したい気持ちはわかるし、そのようにすることにも正当性はあろうけれど、もっと端的に「アル中」として、病人として扱うべきではないか、と思う。太宰治の自殺を「彼の文学の完成」と言ってしまう不健康さを思い出す。バカバカしい。そんなに才能があったなら、作品を書くなり編集するなりすれば良い。可能性だけの天才なんて。

 

遠藤麟一朗に友人はいたのだろうか。酒をやめさせるよう忠告して、絶交したような人は。

 

 

こう言い換えても良いかもしれない。私は粕谷のような書き方を肯定するには健康的すぎる。

思い出しても涙も出ない

高田里恵子「学歴・階級・軍隊」読了。山崎晃嗣や遠藤麟一朗についての記述が印象に残る。面白い。

 

ただ、あまり若い頃のショックそのものについては、学歴の高さ云々よりも個々人の言語能力とその後の影響が重要で、それ自体は考えなくても良いような気がする。

 

粕谷一希による遠藤麟一朗についての本「二十歳にして心朽ちたり」のタイトルが良く表している通り、青春は退屈な、通り過ぎるのを待つしかない、台風のような自然現象に過ぎない、と思うからだ。李賀の詩が著名なのはまさにその思いを多くの人が持つからだし、言い換えれば二十歳とは心が朽ちる年齢なのだ。「一番美しい季節」とは誰にも言わせたくない季節。

 

今、四十を超えて思うのは、体を悪くしない程度にうまくやり過ごしてね、ということくらいだ。

腹が減っては

「完全なる首長竜の日」読了。T君に勧められ。サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」へのオマージュと聞いて。

 

面白いけど、個人的な趣味として気に入らないことがある。必然性も無いのに、子供を殺さないでほしい。物語の中であっても。この話自体は、プロット中で子供が死ななくても成立すると思う。子供が生まれてから、そういうのは耐え難い。

 

シーモアの死の一つの解釈、とのことで、解釈だからいろいろあって良いんだけど、私は特になるほどとは思わなかった。

 

柔軟体操して寝ます。

人間の必然的帰結

電車の中で、「私たちは売り物じゃない!」という広告を見る。いや、君たちは売り物だ。私たちと同様に。他の人と同様に。それを隠蔽できると考えるのは、あまりに人を馬鹿にし過ぎではないか?

 

大島渚「青春残酷物語」を思い出した。「全ての職業は売春である」

 

月曜日の朝からフルスイングだなぁ。

その先に何があるのか

「脳を創る読書」読了。紙のほうが情報量が多く、記憶に定着しやすい、というのはなるほどと思う。電子辞書に替えてから、英単語の記憶力が弱くなった気もするし。人間の脳は複雑さを好む、というのは良く分かる。

 

もう一つ。言語についてはまだまだ分かっておらず、コミュニケーションができるロボットができるのはだいぶ先のこと、とのこと。ただ、それは人に「内面」を想像するモデルを採用してるせいではないか。刺激と反応+学習、というモデルであれば、言語の形而上学的な問題を回避できるような気がするのは、素人の浅はかさのせいかもしれないが。チューリングテストに合格できる、というレベルは難しいかもしれないが、人間の子供もチューリングテストは合格できないのではないか。うちの子(3歳)を見てるとそう思う。