真砂なす数多の星のその中に我に向かいて光る星あり

ドキュメンタリー映画「ハーフ」を観る。思い出したのは、「コーダの世界」。

 

時折、ウェブ上だったりバーだったりで、ひどく趣味の合う人に出会う。それは奇跡みたいで、神様はいるんだ、と信じるような気持ちになる。

 

まだそういうご経験のない方、もしこれを読んでいたら、必ずそういう出会いがあるから、と伝えたい。あります。ホントに。もしかしたら、それはドラクエ5みたいに自分の子供かもしれないけど。あるいは遠い国のずっと昔に書かれた本かもしれないけど。我々はその程度には凡庸だから。

「君と僕の言葉を愛する人がいる」ことに甘えるな

あえて言っておくと、小沢健二が歌う歌詞に東大の匂いと特権化を感じるが、そんなものにはなんの意味もないし、もし小沢健二自身がそれら固有名詞に意味を考えてないと言ってもそれは卑怯である、と言わざるを得ない。

 

銀杏並木も駒場図書館もくだらないし、その点において小沢健二はくだらない。他の点は素晴らしいと思うが、繰り返すと、この点において、小沢健二はくだらない。

 

このことは明記しておかねばならない。

誰か放した風船が飛んでいくよ

今さらだけど小沢健二アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」を買って聴いている。

 

かつて、私は小沢健二に憧れた。田舎町で「LIFE」を聴きながら、東京へ憧れた。

 

気がつくと、大学も出て十数年、結婚して子供までいる。笑ってしまう。

 

あの頃は、とても自分が40歳を超えて生きているなんて思いもしなかった!それは幸せなことなのかどうなのか、分からないが、良いことなんだろう。

 

良いことなんだろう、とは思うけど、ホントはウソだと思ってもいる。

 

小沢健二が何かをすれば、気になる自分もいるけれど、かつてのように必死にそこに意味を見出そうともしないようになった。それはなんだかとても寂しいことだけど、仕方ないことだとも知っている。

六の宮の姫君

鈴木涼美「身体を売ったらサヨウナラ」を途中まで読んだ。なんだろう、もう読まなくても良いような気がする。

 

中村元「往生要集」を借りてきて読んでいた。妻が「中村元って、要するに仏教オタクでしょ。」とか抜かしやがった。が、それを否定する言葉も確かに見つからない。

 

鈴木涼美にも妻にも中村元の偉大さを語ったところで届かないのだろう、というか私だってどれだけその偉大さを理解してるか分からない。

 

中村元の訳した本を読んで、ひどく救われた気持ちになって眠れたつらい夜があった、というだけで、私には十分なのだけれど。

君という単独者

年末年始とゴールデンウィーク、シルバーウィーク、お盆といった長期休暇を待ち望むような生活ってなんだろうね。つまらんね。

 

ワーカホリックもつまらんが、レジャーを待ち望む生活もつまらん。どちらも充実、ってのもつまらん。つまらん、つまらんとブチブチ言ってるのもつまらん。

 

なんてことを考えながら思い出すのはカフカ「皇帝の使者」。

夢を見た。

人が入ることをあまり想定していない、入り口が狭い上に荷物の積み上がった古本屋。入り口付近にジャン・ジュネの本。西谷修、みたいな名前の人(五文字くらい、西が名前に入っている、が西田幾多郎ではない。雰囲気は新進気鋭の誰か。ただ、千葉雅也とか國分功一郎とかほど若いイメージでもない)福田和也、あともう一人の人のサインの入った岩波青の本が三冊組で二千円くらいで売られている。西何とかさんのサインの横には「自由」とある。店主と「らしいですね」と笑いあう。

店主と会話。「ジュネの本は出てるんですか?」とか「西○○さんは最近そのへんのことを書いているよ」とか何とか。

 

考えたらこれが初夢。ジャン・ジュネ買っとくか。

 

分からないことばかり

半藤一利出口治明明治維新とは何だったのか」読了。明治維新薩長による暴力革命と定義。通説的理解を対談で読みやすくした、ということか。

 

大久保、西郷、木戸等々の人物評みたいなところは与太話以上のものではないような。それぞれの人がやったとされる行動、行為の有効性の判断として読み替えるのが良いのだろう。